翠の瞳にうつるもの

どこかの誰かの心に残るものを書きたい

1945年、15歳だった少年の話。

昭和4年生まれ。
日本が太平洋戦争をしていた時期に、私の祖父は少年期を過ごした。

その頃の出来事を教えてくれた機会は、多くはなかった。


語り部の方々や書籍の記録にあるような壮絶な戦闘現場の話ではない。
けれど戦時の日常生活の中での体験もまた、今の世代が戦争というものを知る・考えるには必要なのではないだろうか。

そういった使命的な気持ちと、単純に祖父との記憶を形で残したい私個人の思いと、その両方を込めてここに記しておきたい。

 

祖父は関西某市にある工務店の長男に生まれた。海軍に憧れ、中でも喇叭手(らっぱしゅ)になりたかったのだと聞いた。
(喇叭手は指揮官の傍に居て、その指示をラッパの音で部隊に伝える役目らしい)

約155㎝と当時でも小柄ながら運動神経は良く、喇叭手に必須の肺活量に至っては学校で一番だったそうだ。
確かに晩年期に階段から転落しても骨折もせず、病気で手術をしても数日後にはベッドで腹筋をしていたような人だ。さぞかしタフな少年だったことだろう。

その後、徴兵検査は受けたが、身長が数センチ足らず不合格となった。そのまま従軍の機会は無く、終戦を迎えている。

 

そんな祖父の育った某市は、大きな空襲には見舞われなかった地だ。(それゆえ原子爆弾の投下候補地になりもしたが)
とはいえ日常生活の中で米軍機の攻撃に遭ったことは何度もあったという。

----------------------------------------

ある日道を歩いていると、後方から米軍機の機銃掃射に襲われた。周辺の人々とわっと走って逃げた。
全力で走り、少し先の道の脇にあった物陰に飛び込んだ。
ところが直後にすぐ目の前で、顔見知りで朝鮮から働きに来ていた男性が躓いて転んでしまったのだという。
そこで祖父はパッと飛び出し、その人の服を掴んで物陰に引きずり込みどうにか二人とも攻撃をやり過ごしたそうだ。

 

またある時は学校の帰り道であったか。近くには他校の生徒を含めた複数の人がいた。
突然爆音と衝撃が襲ってきた。幸い祖父に大きなケガは無かった。
「ああ、こりゃ近くに爆弾落ちたか」
そう思ってふと目線を上げると、さっきまで近くを歩いていた女学生さんのちぎれた腕が電線に引っかかっていた。


---------------------------------------------

戦争がもしあと半年も続いていたなら、不合格だったとはいえ年齢からしてどこかの戦闘に駆り出されていたかもしれない。

学校の先生に、満州へ行かないかと勧誘を受けたこともあったそうだ。この時は両親に「絶対に行くな!」と大変な剣幕で怒られて断っている。
(これは満蒙開拓青少年義勇軍のことではないかと推測している。なお実際満州へ渡った方々に何が起きたかはご自身の手で調べてみていただきたい。)

 

こうして何度も生と死の分岐点を越えて、祖父は1945年8月15日を迎えている。
戦後は工務店の3代目として、職人人生を送った。妻を持ち子供にも恵まれ、実直に懸命に働いて生まれ育った街に自宅も建てた。

そして平成30年に88歳で没した。
祖父を見送った日は、スッキリとした青空のもと満開の桜が舞って本当に美しかった。
私にはそれが、祖父がその命を精一杯まっすぐに生き抜いた証であるような気がした。

 

当時を生きた人たちは皆、何かしら戦争による痛みを抱えて戦後を過ごして来られたことと思う。
私はそんな祖父にとっての幸福のひとつに、なれていただろうか。最期まで私のことを忘れず可愛がってくれたあの人の。